フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●中島みゆき「時代」 [日本のフォークの歴史]

●中島みゆき「時代」

オリコンで4つの年代にわたってシングルチャート1位を獲得した(1970年代:「わかれうた」、1980年代:「悪女」、1990年代:「空と君のあいだに」、「旅人のうた」、2000年代:「地上の星」)唯一のソロ・アーティストでもある。

1975年5月、財団法人ヤマハ音楽振興会の主催による第9回ポピュラーソング・コンテスト(通称ポプコン、現在のTEENS' MUSIC FESTIVAL)に「傷ついた翼」が入賞。

同年9月には「アザミ嬢のララバイ」でキャニオン・レコード(現:ポニーキャニオン)から晴れてレコード・デビューを果たす。

そして、1975年10月の第10回ポピュラーソング・コンテストに「傷ついた翼」から急遽差し替えた「時代」によってグランプリを受賞。

つづけて11月の第6回世界歌謡祭 でもグランプリを受賞した(「時代」は同年12月にセカンド・シングルとして発売)。

これをきっかけにミュージシャンとしての実力をヤマハミュージックの川上源一に見出される。



1976年4月、ファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』を発表。

その後現在まで、1年につきアルバム約1枚のペースでコンスタントに作品を発表し続けている。

翌年には歌手としても「わかれうた」が70万枚を超えるセールスを記録し、ミュージシャンとしての地位を確固たるものにした。

歌手としてのブレイク曲「わかれうた」が収録されていた1978年発表の4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』には「世情」という楽曲が収められている。

この作品は後年にTBS系ドラマ『3年B組金八先生』の劇中に使用されて大きな話題を呼び、シングル・カットされなかったにもかかわらず中島の初期の代表曲のひとつとなっている。


1981年のシングル「悪女」はオリコンのシングルチャートで自身2度目の1位を獲得し、翌1982年の年間チャートでも6位を記録、また、この曲のアルバム・バージョンが収録された1982年発表のアルバム『寒水魚』が同年のオリコンの年間アルバムチャートで1位を記録するなど、1981年から1982年にかけてはその人気はピークに達した。

1989年からは、瀬尾が音楽監督として名を連ねる演劇とコンサートを融合した舞台「夜会」(やかい)をBunkamuraシアターコクーンで毎年12月に上演するようになる。

「夜会」は中島にとってのライフワークともいえる舞台となり、1998年に一旦、年一回の公演という形を終了し、その後は不定期で上演されている。

1990年代の日本の音楽業界では、テレビドラマやCMとのタイアップによってミリオンセラーを記録するシングルが後を絶えなかったが、その中において中島みゆきも例に漏れず、「浅い眠り」をはじめとする3枚のミリオンヒットを記録している。

この3枚のいずれもテレビドラマの主題歌として起用された楽曲であり、なかでも安達祐実主演の日本テレビ系列『家なき子』の主題歌として書き下ろされた1994年の「空と君のあいだに」は147万枚のセールスを記録した。

1983年発表のアルバム『予感』収録曲「ファイト!」との両A面扱いで発売されたこのシングルは、現時点での中島にとっての最大級のベストセラーである。

1999年には文部科学省の国語審議会委員を務めた。現時点でこの審議会の委員を務めた歌手は中島みゆきただ一人だけである。



2000年には25年に渡って在籍したポニーキャニオンを離れ、当時創設されたばかりで自らが取締役・主要株主として経営にも参画するミニ・メジャーのレコード会社、ヤマハミュージックコミュニケーションズに移籍。

以降現在までヤマハから作品を発表している。

移籍後最初にリリースされた中島のシングルが、NHKのテレビ番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の主題歌「地上の星/ヘッドライト・テールライト」である。

このシングルは主に中島の作品にこれまで馴染みの薄かった中高年層のサラリーマンを中心に大きな人気を集め、最終的にオリコンのウィークリーシングルチャートTOP100に連続174週に渡ってランクインするという驚異的な記録を打ち立てた。

発売当初、このシングルは全くと言っていいほど話題にならなかった。

しかし、『プロジェクトX』の人気が高まるとともに注目され、アルバム『短篇集』には、1曲目が「地上の星」、ラストが「ヘッドライト・テールライト」という構成で収録された。

このアルバムを発売するにあたっては、ジャケットの仕様をめぐり岩波書店からクレーム(岩波文庫をもじって「山波文庫」=ヤマハ文庫と表記した)がつき、発売直前になって急遽デザインが差し替えられるというハプニングも起こった。

このロングヒットをきっかけに中島は2002年の第53回NHK紅白歌合戦に出演。

『プロジェクトX』内でもとりあげられた黒部ダム(黒部川第四発電所)からの中継で「地上の星」を歌った。

このとき初めて「動く中島みゆき」を見た人も多く、番組中最高の歌手別視聴率(52.8%:ビデオリサーチ調べ/関東地区)を記録。

また、極寒の中で極度の緊張から2番の歌詞を間違えたにもかかわらず反響は大きく、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は翌年1月、発売から2年半近くを経てシングルチャートナンバーワンに輝いた。

これはオリコン始まって以来のリリース後最長期間(130週)を経た1位獲得記録である。

同時に、1970年代 - 2000年代まで4年代連続の1位獲得となった。



2005年12月28日には『プロジェクトX』の最終回に出演。

歌詞以外はほとんど声を発することなく、スタジオで同番組エンディングテーマ「ヘッドライト・テールライト」を熱唱した。

その影響で2006年1月16日、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は、2004年2月2日以来のオリコンシングルチャート100位圏内返り咲き(66位)を達成。

通算オリコンシングルチャート100位圏内チャートイン記録を183週に延ばした。

『紅白歌合戦』及び『プロジェクトX』の最終回に唄う際、ほとんどMCがなかったのは、当の本人の「あっけらかん」さが表れるのがいやだった、と本人がラジオ(2006年12月15日『オールナイトニッポン』にて)で話している。



2006年、第56回芸術選奨 文部科学大臣賞を受賞した。

「コンサートツアー2005」が評価されてのこと。

シンガーソングライターとしては初の受賞者。

また同年には、TOKIOに提供した「宙船」の作詞が評価され、第48回日本レコード大賞の作詩賞を受賞した。

2007年8月から新たに設立されたヤマハミュージックアーティストがマネジメントが行う。

同年秋には2年ぶりの全国ツアー「コンサートツアー2007」が行われた。

2009年11月3日、紫綬褒章を受章。

受賞に際して、うれしい気持ちを「棚から本マグロ」と表現した。

中島曰く、「ふつう、何か頂けそうでも辞退する(考える)ところだが、褒章はふつうではないため、すぐに返事をした」という。


中島みゆきについては、特集コーナーを作る予定です。



●中島みゆき「時代」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=9S-V_uUIgeA


ヤマハの世界歌謡祭 でもグランプリを取って、僕は初めて「中島みゆき」を知った。

「いやはや、とんでもない歌手が出てきたぞ」というのが最初の印象だった。

その後「暗い」というイメージがあった中島みゆきだったが、彼女のオールナイトニッポンでその「落差」に驚いて、ますますファンになった。

「時代」は僕が失恋するたびに聴いた曲。

「時代」を超えて、唄え継がれる歌だ。



●中島みゆき「空と君のあいだに」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=DeoWTEy6AxI


吉田拓郎の「冷たい雨が降っている」と同じ印象を受ける曲。

この曲で、世間的には中島みゆきが一躍有名になる。

このあたりから中島みゆきの世界が確固たるものになる。



●中島みゆき「地上の星」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=v2SlpjCz7uE

そして、中年おじさんの間に一大ムーブメントを起こした名曲。

番組「プロジェクトX」そのものも素晴らしい番組だったが、この曲も歌詞の意味が深く、サラリーマンの心に感動を与えてくれる。





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フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●あがた森魚「赤色エレジー」 [日本のフォークの歴史]

●あがた森魚「赤色エレジー」

上京後、斉藤哲夫、野澤享司、鈴木慶一らと親交を深め、中津川フォークジャンボリーにあがた森魚と蜂蜜ぱいとして参加。

春一番コンサートにも同様の組み合わせで参加。林静一の同名漫画を題材とした「赤色エレジー」が話題になり、50万枚を売り上げてベルウッド初のヒットシングルに。

「VirginVS」「雷蔵」としてのリリース、ライヴ盤、カヴァーアルバムなどを含め、40枚あまりのアルバムをリリースしている。

近作に『佐藤敬子先生はザンコクな人ですけど』『タルホロジー』。

2008年、60歳を迎えライヴツアー「惑星漂流60周年!」を全国各地で展開、 2009年2月22日、記念イベント『Zipang Boyz號の一夜』を開催。

2009年10月ドキュメンタリー映画『あがた森魚ややデラックス』完成、 全国順次公開中。

月刊日記映画を毎月制作、上映会も行い、ライヴを全国で展開している。


●あがた森魚「赤色エレジー」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=JRQfpWJt840

とてもレトロな、大正ロマン風のフォークソング。

独特な世界を広げた。(風貌も独特だが。)

映画を題材にした歌だ。

のちにリリースした「ジパング・ボーイ」では、より深い「あがたワールド」を展開した。(残念ながらYouTubeには無かった。)





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フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●バズ「愛と風のように」 [日本のフォークの歴史]

●バズ「愛と風のように」

小出博志は東海大学在学中に「インディアンアップル」というバンドを結成。

その後高橋信之を中心としたグループ「ステージフライト」に参加した。

東郷昌和は中学時代に同級生の高橋幸宏(高橋信之の弟)と「ブッダズ・ナルシィーシィー」というバンドを結成。

高橋信之のプロデュースでフォークグループを結成、1972年に『ケンとメリー~愛と風のように~』でデビュー。

『ケンとメリー~愛と風のように~』は、日産スカイラインのCMソングに起用され、オリコンチャート19位まで昇るヒットとなった。


●バズ「愛と風のように」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=rOU5uxt2wNM

これまた美しい歌声のバズの歌だ。

日産のスカイラインのCMにぴったりとはまった歌だ。

僕もギターを覚え始めた頃に練習した。

この曲で初めてAのコードを覚えた。

愛と風のように生きる。素敵なフレーズだ。




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フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●ガロ「学生街の喫茶店」 [日本のフォークの歴史]

●ガロ「学生街の喫茶店」

松崎しげるらと「ミルク」という名のバンドを組んでいた堀内と日高に大野が加わり結成。

かまやつひろしのバックバンドを経て、ミッキー・カーチスのプロデュースで、1971年にシングル『たんぽぽ』でデビュー。

同年11月、アルバム『GARO』をリリース。

1972年、セカンドアルバム『GARO2』をリリース。

同年6月、このアルバムから1曲目の『美しすぎて』をA面、3曲目の『学生街の喫茶店』をB面としたシングルがリリースされたが、当初はシングルチャート上位には登場しなかった。

同年12月、サードアルバム『GARO3』をリリースしたが、それと前後して『美しすぎて』のB面『学生街の喫茶店』がラジオや有線放送のリクエストを集めるようになり、1973年2月19日付けのオリコンのシングルチャートで1位に浮上、4月2日付けのチャートまで7週連続1位というヒットとなった。

これによりガロのテレビ等のマスコミ出演回数が飛躍的に増大したが、そのヒット期間中にボーカルの大野が入院、復帰するまで堀内と日高の2人だけでスケジュールをこなす事態が生じた。

『学生街の喫茶店』がヒットしている最中である1973年2月26日に横須賀市文化会館で催行されたコンサートがライブ収録され、5月にシングルとしてリリースされた『君の誕生日』と『散歩』の2曲(スタジオ録音)を追加したアルバム『GARO LIVE』が1973年6月にリリース。

さらに同年、シングル曲の『ロマンス』を含むアルバム『GARO4』がリリースされ、翌1974年にはコンセプトアルバム『CIRCUS』がリリースされるが、『学生街の喫茶店』に相当するヒットには至っていない。

アルバム『三叉路』が最後のレギュラーアルバムとなり、1976年に解散する。



●ガロ「学生街の喫茶店」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=m0AdH1ODBrw

もともとシングル盤のB面の曲だったが、吉田拓郎が初めてこちらのほうがいいとオールナイトニッポンで流し、そこで火が付く。

無茶苦茶きれいなハーモニーで、僕の母親が「お金を出すから学生街の喫茶店を買ってきて」ということで、僕はこのシングルを母のために買ってやった。

ガロはテレビでもよく出演したのでヒット番組の常連になった。



●ガロ「美しすぎて」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=iOAg4guakyg

この曲も美しいハーモニーを聞かせてくれるが、やはり「学生街の喫茶店」ほどインパクトのある歌詞じゃないね。




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フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●早川義夫「サルビアの花」 [日本のフォークの歴史]

●早川義夫「サルビアの花」

中学時代、日劇ウエスタンカーニバルで尾藤イサオ(演奏:ジャッキー吉川とブルーコメッツ)のステージを見て、ロックに目覚める。

1965年、高校時代に、同級生2人と「ナイチンゲイル」というバンドを結成。

この頃、メジャーデビュー前のザ・スパイダースを見て、刺激を受けている。

大学進学後、バンド名をジャックスと改め、ライブ活動を始める。

1967年にメンバーが交替し、木田高介、水橋春夫、谷野ひとしの4人編成となる。

デビューアルバムは『ジャックスの世界』。

ジャックスはセカンドアルバム『ジャックスの奇蹟』を残して解散する。

当時商業的に大きな成功を収めることはなかったが、彼らのジャズに影響を受けたオリジナルな音楽性、そして早川の狂気を秘めた歌声と異様で繊細な歌詞は、後に日本のパンク・ロック等のさきがけとして高い評価を受けるようになる。

ジャックス解散後、URCレコードのディレクターの傍ら、ソロアルバム『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』を発表する。

このアルバムにも収められている彼の曲「サルビアの花」は後に多くのミュージシャンによってカバーされるスタンダード曲となる。

ディレクターとしては岡林信康、加川良らを担当した。 

しかし次第に音楽の仕事から離れ、1972年には川崎市内に早川書店を開店した。

1994年に『この世で一番キレイなもの』で復帰するまで23年間音楽活動を停止していた。

2003年、佐久間正英とCes Chiensを結成。佐久間正英はデビュー前のジャックスショウを観て衝撃を受けたという。


●早川義夫「サルビアの花」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=I9I_1ZbtqYs

これほど多くのミュージシャンに愛された歌は無いだろう。
多くのミュージシャンがカバーしている。
それにしては一般的にはそれほど有名ではない。


●この歌を初めて聴いたのは「もとまろ」が歌っていた「サルビアの花」だった。
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=KL7tiZD747M

「なんなんだ?この世界は!」と思った。
そして、すぐに映画「卒業」を思い出した。
この歌詞を聴いてどういう世界なのか想像したが、僕の貧弱な想像力ではとても想像できる世界ではなかった。



●井上陽水の「サルビアの花」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=8wR2YvMmoDs


●甲斐よしひろの「サルビアの花」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=0z7QK9ZIZoE


な、な、なんと!こんな人まで歌っている。
   ↓
●天地真理の「サルビアの花」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=2JOKNZ3t8Ho


●小柳ルミ子の「サルビアの花」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=jz_TU_CHjFo


それだけ、人の心をほのかにわしづかみにするフォークソングの歴史的名曲なんだね。



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フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●中山ラビ「ひらひら」 [日本のフォークの歴史]

●中山ラビ「ひらひら」

東京都生まれ。

詩人の中山容が訳詞したボブ・ディランの歌でライブ・デビューし、その後、大きな影響を受けたため、女ボブ・ディランといわれた。
「中山」姓も中山容にちなんだもの。
東京都内の喫茶店「ほんやら洞」のオーナーを務めながらライブ活動を継続している。年齢・本名非公表。

1966年6月のビートルズ来日公演に行く。
高校の英語の授業でボブ・ディランの歌を知る。
1968年にデビューした岡林信康の歌を聞いて衝撃を受ける。

また、高田渡、遠藤賢司、南正人らフォーク集団「アゴラ」の一員であったボロ・ディラン(真崎義博)に出会う。

1969年、大学1年の時、第4回関西フォークキャンプ(8月15日〜17日)に自費で参加。
ギターのコードを3つ覚えた程度で、京都の円山公園野外音楽堂での打ち上げコンサートで「俺じゃだめ」(ボブ・ディラン作詞・作曲、中山容=訳詞)ほかを歌って、ライブデビューし、1970年夏、大学2年の時、家出同然で京都に引っ越す。
同年からアルバイトをしながら、関西中心にライブ活動を開始。


●中山ラビ「ひらひら」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=-GsVRJzMLK8

僕が中山ラビを初めて知ったのはNHKのお正月の特別番組で、海援隊等と一緒に出ていた。
かったるい歌い方が気になり、次に、その歌詞の世界にひたった。


●中山ラビ「あてのない1日」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=hcaPAvN59Ms

相も変わらずの中山ラビの世界だ。
こんな感じの歌を、今、唄うとしたら、椎名林檎ぐらいかな。




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フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●南こうせつとかぐや姫「神田川」 [日本のフォークの歴史]

●南こうせつとかぐや姫「神田川」

1971年9月、高校の後輩だった伊勢とカレッジフォークグループ「シュリークス」を脱退したばかりの山田と共に『南こうせつとかぐや姫』(第2期かぐや姫)を結成、シングル「青春」でデビュー。

吉田拓郎らの協力を得て制作されたファースト・アルバム『はじめまして』は、5万枚を売り上げる。

1972年3月、テレビアニメ「海のトリトン」(ABC)の主題歌として、シングル「海のトリトン」を『須藤リカ/南こうせつとかぐや姫』名義で発売。

番組のオープニング(最初の6回まで)またはエンディング(7回以降)で、須藤リカとかぐや姫がこの曲を歌う実写映像が使われた。

1973年9月、シングル「神田川」を発売。深夜放送のリスナーから支持を得て、シングルカットされたこの曲は、最終的に160万枚を売り上げる自己最大のヒット曲となる。

この年NHK紅白歌合戦に出場の話が来るが歌詞の中の『クレパス』が商標なので『クレヨン』に変更してくれといわれて拒否。

このため出場を辞退した。「神田川」は後に東宝において映画化されるが、主役のイメージが歌と大きく違いすぎたと南こうせつは話している。

その次のシングルとして南こうせつが考えていたのは「22才の別れ」か「なごり雪」であったが、すでに映画化が決まっていたためレコード会社側が一方的に決めた「赤ちょうちん」をリリース(この曲からグループ名を「かぐや姫」に変更)。

その後も映画化の話が絡み「妹」がシングルになるなど、アーティストの意思が無視されることが続き、それが原因で解散が早まったという。

1975年4月12日、東京神田共立講堂で行われた解散コンサートを最後に解散。

南こうせつと山田パンダはソロ、伊勢正三は風として、音楽活動を継続する。

最後の2枚組アルバム『かぐや姫フォーエバー』は、オリコンLPチャートのトップ100に186週ランクインを記録した。

1975年8月2~3日、再結成。

吉田拓郎、山本コウタローらとともに、静岡県掛川市で12時間のオールナイトコンサート「つま恋コンサート」を行い、5万人(警察発表では6万人)の観客を集める。

南こうせつと山田パンダはソロ、伊勢正三は風としても出演。

2006年9月23日、吉田拓郎の呼びかけで再結成、静岡県掛川市で「つま恋2006」を行う。9時間半のコンサートに、日本各地から35,000人のファンが集まった。


●南こうせつとかぐや姫「神田川」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=acZYeirZ-J8

僕もこの曲でかぐや姫を知った。
NHKのFM番組で聴いたのが中学2年。
中2のくせに「しみじみ、いい曲だな・・・・」と思った。
次の日、学校で級友に唄ってみせたが、全然、感じてもらえなかった。
「4畳半フォーク」という言葉もこの歌から生まれた。



●南こうせつとかぐや姫「22才の別れ」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=v1fZ_dqwKOg

この曲のイントロを友人と一生懸命、練習してクラス会で歌ったことがある。
途中の「ハーモニックス」(ポン!という高い音)がきいているよね。



●南こうせつとかぐや姫「僕の胸でおやすみ」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=IqwEqfRJRTw

一般には上の2曲ほど有名じゃないけれど、いい曲だよね。
「日本のフォーク!」という感じだ。




●南こうせつとかぐや姫「あの人の手紙」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=5cSlEDVoWX8

かぐや姫としては珍しく「反戦歌」だ。
「22才の別れ」でかぐや姫のファンになった人が、つられてこの歌を聴く、というところに意味がある。





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フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●泉谷しげる「眠れない夜」 [日本のフォークの歴史]

満を持して、泉谷しげるの登場だ!

東京都立目黒高等学校を1週間で中退後、いろいろな職についたが長続きせず、当時「神様」といわれた岡林信康に衝撃を受けフォークシンガーを目指した。

「フォークゲリラ坂崎幸之助商店」にゲスト出演した時、はっぴいえんどにも影響を受けたと語っている。

この頃には漫画雑誌『ガロ』に投稿し、漫画家を目指そうとしていた。


1971年にライヴアルバム『泉谷しげる登場』でエレックレコードからデビュー。

古井戸(加奈崎芳太郎・仲井戸麗市)、ピピ&コット(佐藤公彦・よしだよしこ)、生田敬太郎らと唄の市コンサートに参加。

このころ、よくライブでRCサクセションや古井戸と一緒にライブをやる。

よしだたくろう退社後の看板スターとして、エレックレコードを支える。

1972年セカンドアルバム『春・夏・秋・冬』をリリース。

加藤和彦がプロデュースを務める。タイトル曲「春夏秋冬」は彼の代表曲となる。

なお、シングルでも発売されたが同名アルバムの音源ではなく、オムニバスライブアルバム『野音 唄の市』収録のライブバージョンでシングル化された。

シングル盤ジャケットに「実況録音盤」と書かれている。

理由は、エレック関係者が「アルバムの音源はシングルにするにふさわしくない」と言ったからだと言われている。

また、1988年には、ロックアレンジで再シングル化されている。


1975年、小室等、井上陽水、吉田拓郎とフォーライフ・レコードを設立。その第1弾アルバムとして『ライブ!!泉谷-王様たちの夜-』(1975年)を発表。

フォーライフ4人衆の連名ライヴアルバム『クリスマス』発表。

1976年アルバム『家族』、『イーストからの熱い風』(1976年アメリカ録音のライヴアルバム)を次々と発売。

当時の泉谷はアルバムを作る際、次のアルバムタイトルを既に決め発表していた。

『ライブ!!泉谷-王様たちの夜-』の帯に『家族の前の…』など記してある(再発物ではない)。

1977年、ストリート・ファイティングメンをバックバンドにしたロックアルバム『光石の巨人』(1977年)を発表し、これを最後にフォーライフレコードを去る。

吉田拓郎らの歌謡曲フォーク路線に嫌気がさしたという説や、当時「テレビ出演拒否派」の代表だった陽水や拓郎が「テレビ出演推進派」の泉谷にクレームをつけたなどの説がある。


最近はすっかり俳優が板についている泉谷しげる!なのだ。




●泉谷しげる「眠れない夜」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=rcyQj8jrfEw

泉谷しげるの代表曲。

スティーヴィー・ワンダーの名曲「迷信」に似てなくもない。
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=3QkNqlH3ixY

まぁ、それはともかく、都会のランナー、スニーカーを履いた芸術家、良識のある暴れん坊の泉谷しげるのパワーを感じさせてくれるフォークソングの名曲です。



●泉谷しげる「春夏秋冬」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=a5JYgzd59oQ

泉谷しげるのデビュー曲であるとともに、泉谷しげるの代名詞とも言える名作。

ここでも泉谷しげるは都会で生きる人への応援歌を歌っている。



●泉谷しげる「黒いかばん」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=X6rVF2fOuNY

がはは! 泉谷しげるの狂作だ。

作詞はあの「岡本おさみ」だ。

初めて泉谷しげるのために書いた作詞が、こんな曲になったので、岡本おさみは二度と、泉谷しげるに詩を提供していない(という説がある。)

我が家の近所に一橋大学があるのだが、そこの大学祭に泉谷しげるが出るというので、もちろん、さっそく僕は観に行った。

運がいいことに前から2列目からの座席だった。

そこで、コンサートの途中で僕が「黒いかばん!」と言ったら「黒いかばんがなんだ!!」と言うので、「やってよ!」と言ったら、快くやってくれた。

あとで、ステージから泉谷しげるが降りてきて、僕の頭を殴っていったのだが。



●こんな人が、泉谷しげるのこんな曲も歌っている。

上野樹里 「黒いカバン~野良犬~泉谷しげる/春夏秋冬」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=dZaAjaqFT90


●泉谷しげる「寒い国から来た手紙」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=TPJH2qJwxQQ

「黒いかばん」を作るかたわら、こういう名曲も作るので、泉谷しげるのファンを僕はやめられないのだ。


泉谷しげるについては特集を組む予定。




■■日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作■■
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日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作


■■日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作(2)■■
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タグ:泉谷しげる
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フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●オフコース「眠れぬ夜」 [日本のフォークの歴史]

●オフコース「眠れぬ夜」

小田和正・鈴木康博・地主道夫らが、神奈川県横浜市の聖光学院高校時代に結成したフォーク・グループがオフコースの始まりである。

1970年に「群衆の中で」でレコードデビュー、当初は生ギターを中心としたフォークソング的な曲を歌っていた。

その実力は当時から評価されながらも、長年ヒット曲に恵まれなかった。

結成7年目の1976年にギターの松尾一彦、ベースの清水仁、ドラムスの大間ジローが加わり、キーボード、シンセサイザーを含めたバンドサウンドとなる。

結成10年目の「さよなら」の大ヒットで多大なる人気を獲得、それ以降も数多くのヒット曲を生み出し、時代を代表するビッグ・グループになった。

しかし、音楽番組全盛の時代にあって、テレビ出演で人気を高めていった他のグループとは一線を画し、テレビ番組にはほとんど出演せず、レコード制作とコンサートに力を注ぐという独自の姿勢を頑なに貫いた。

そのシンプルで普遍的な愛の歌詞とニューミュージックと呼ばれるようになった洋楽のエッセンスを持ったポップな楽曲と美しいハーモニーのコーラスは多くの人を魅了した。



●オフコース「眠れぬ夜」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=954-e7h7FiI

この曲で一躍、オフコースは脚光をあびる。

僕が初めてこの曲を聴いたのは、もちろんラジオの深夜放送だ。

で、「なんてきれいなハーモニーを出すグループなんだ!」と思ったと同時に、当時、吉田拓郎、泉谷しげるという硬派路線を突っ走していた僕は、「なんていう甘っちょろい歌だ。軟弱な!」と思ったものです。

今は、もう、そんなことを思っておらず、小田さんの最近のCDはもれなく買っています。

ちなみに、小田和正さんの実家は薬局で、お兄さんは東京薬科大学の合唱部にいた。(僕の先輩にあたるわけだ。)



●オフコース「愛を止めないで」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=iiPyXO4ID_8

この(↑)動画を見てもらってもらっても分かるとおり、オフコースは圧倒的に女性ファンが多い。(もちろん、男性もいるよ。)

男性と女性の心理の機微をうまく歌っている。

この手の歌を唄わせたら、当時は、オフコースがダントツだった。



●オフコース「さよなら」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=nKqTuegks1c

この曲でオフコースは「ニューミュージックグループ」として不動の位置を確立した。

女性ファンが多いのがうなずける名曲です。





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フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●西岡恭蔵「プカプカ」 [日本のフォークの歴史]

●西岡恭蔵「プカプカ」

1960年代にフォークグループ“ザ・ディラン”を大塚まさじ、永井洋と結成するが、1971年頃に脱退。彼が抜けた後のザ・ディランIIのデビューアルバム『きのうの思い出にわかれをつげるんだもの』のレコーディングに参加。

象狂象のペンネームで作った『プカプカ』は代表曲となる。

1972年、吉野金次プロデュースのソロアルバム『ディランにて』でデビュー。

1974年、セカンドアルバム『街行き村行き』(あがた森魚・はちみつぱい・細野晴臣参加)を発表。

また、同年にザ・ディランの再結成に佐藤博、長田タコヤキ和承、石田長生らと参加。

同グループはアルバム『悲しみの街』(ベルウッド)を発表。『ほら貝を語る』では三上寛と思われる人物が登場している。

1999年、自宅で首を吊って自殺。享年50。



●西岡恭蔵「プカプカ」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=qLFFzTspoXA

多くの歌手がカバーしている。

いい歌だよね。

ジャンルを超えて名曲だ。

たばことスイングジャズと男と占いが好きなこの女性は、ジャズ歌手で失踪した安田南さんだとうわさされました。

「日本をすくえコンサート'94」では泉谷しげるが歌っていた。(当然、僕は観に行った。)

このコンサートは出演者が豪華だった。
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=KdoZ48XgwU8



●西岡恭蔵 「サーカスにはピエロが」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=ZHNRs0jGwUc

フォークソングの平和な日々の懐かしい曲だ。

そうさ、サーカスにはピエロが必要さ。





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