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フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●オフコース「眠れぬ夜」 [日本のフォークの歴史]

●オフコース「眠れぬ夜」

小田和正・鈴木康博・地主道夫らが、神奈川県横浜市の聖光学院高校時代に結成したフォーク・グループがオフコースの始まりである。

1970年に「群衆の中で」でレコードデビュー、当初は生ギターを中心としたフォークソング的な曲を歌っていた。

その実力は当時から評価されながらも、長年ヒット曲に恵まれなかった。

結成7年目の1976年にギターの松尾一彦、ベースの清水仁、ドラムスの大間ジローが加わり、キーボード、シンセサイザーを含めたバンドサウンドとなる。

結成10年目の「さよなら」の大ヒットで多大なる人気を獲得、それ以降も数多くのヒット曲を生み出し、時代を代表するビッグ・グループになった。

しかし、音楽番組全盛の時代にあって、テレビ出演で人気を高めていった他のグループとは一線を画し、テレビ番組にはほとんど出演せず、レコード制作とコンサートに力を注ぐという独自の姿勢を頑なに貫いた。

そのシンプルで普遍的な愛の歌詞とニューミュージックと呼ばれるようになった洋楽のエッセンスを持ったポップな楽曲と美しいハーモニーのコーラスは多くの人を魅了した。



●オフコース「眠れぬ夜」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=954-e7h7FiI

この曲で一躍、オフコースは脚光をあびる。

僕が初めてこの曲を聴いたのは、もちろんラジオの深夜放送だ。

で、「なんてきれいなハーモニーを出すグループなんだ!」と思ったと同時に、当時、吉田拓郎、泉谷しげるという硬派路線を突っ走していた僕は、「なんていう甘っちょろい歌だ。軟弱な!」と思ったものです。

今は、もう、そんなことを思っておらず、小田さんの最近のCDはもれなく買っています。

ちなみに、小田和正さんの実家は薬局で、お兄さんは東京薬科大学の合唱部にいた。(僕の先輩にあたるわけだ。)



●オフコース「愛を止めないで」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=iiPyXO4ID_8

この(↑)動画を見てもらってもらっても分かるとおり、オフコースは圧倒的に女性ファンが多い。(もちろん、男性もいるよ。)

男性と女性の心理の機微をうまく歌っている。

この手の歌を唄わせたら、当時は、オフコースがダントツだった。



●オフコース「さよなら」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=nKqTuegks1c

この曲でオフコースは「ニューミュージックグループ」として不動の位置を確立した。

女性ファンが多いのがうなずける名曲です。





■■日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作■■
             ↓
日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作



■■日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作(2)■■
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日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作(2)




タグ:オフコース
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フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●西岡恭蔵「プカプカ」 [日本のフォークの歴史]

●西岡恭蔵「プカプカ」

1960年代にフォークグループ“ザ・ディラン”を大塚まさじ、永井洋と結成するが、1971年頃に脱退。彼が抜けた後のザ・ディランIIのデビューアルバム『きのうの思い出にわかれをつげるんだもの』のレコーディングに参加。

象狂象のペンネームで作った『プカプカ』は代表曲となる。

1972年、吉野金次プロデュースのソロアルバム『ディランにて』でデビュー。

1974年、セカンドアルバム『街行き村行き』(あがた森魚・はちみつぱい・細野晴臣参加)を発表。

また、同年にザ・ディランの再結成に佐藤博、長田タコヤキ和承、石田長生らと参加。

同グループはアルバム『悲しみの街』(ベルウッド)を発表。『ほら貝を語る』では三上寛と思われる人物が登場している。

1999年、自宅で首を吊って自殺。享年50。



●西岡恭蔵「プカプカ」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=qLFFzTspoXA

多くの歌手がカバーしている。

いい歌だよね。

ジャンルを超えて名曲だ。

たばことスイングジャズと男と占いが好きなこの女性は、ジャズ歌手で失踪した安田南さんだとうわさされました。

「日本をすくえコンサート'94」では泉谷しげるが歌っていた。(当然、僕は観に行った。)

このコンサートは出演者が豪華だった。
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=KdoZ48XgwU8



●西岡恭蔵 「サーカスにはピエロが」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=ZHNRs0jGwUc

フォークソングの平和な日々の懐かしい曲だ。

そうさ、サーカスにはピエロが必要さ。





■■日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作■■
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日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作(2)



タグ:西岡恭蔵
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フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●斉藤哲夫「されど私の人生」 [日本のフォークの歴史]

●斉藤哲夫「されど私の人生」

アマチュア時代から、あがた森魚、野澤享司、鈴木慶一、はちみつぱいらと親交を深める。

URCから早川義夫プロデュースの「悩み多きものよ」でデビュー。

その後ファーストアルバム『君は英雄なんかじゃない』を発表する。

“悩み多きものよ”“されど私の人生”が URC 時代の代表的作品。

1973年CBSソニー から『バイバイ・グッドバイ・サラバイ』、1974年『グッドタイム・ミュージック』1975年『僕の古い友達』など3作品をリリース。

野澤享司のことを歌った、“野澤君”などの楽曲がある。また、その文学性の高い歌詞から若き哲学者、歌う哲学者等の愛称でも呼ばれた。

その後、キャニオンから2枚のアルバムとミニアルバム『ピカ-ピカ』をリリース。(宮崎美子が出演していたミノルタ(現コニカミノルタ)X-7の CM ソング「いまのキミはピカピカに光って」収録。)



●斉藤哲夫「されど私の人生」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=UCxNBcL447I

吉田拓郎も歌っている。

人生を唄った歌は数多くあるが、この曲は5本の指に入る名曲だ。



●斉藤哲夫「バイバイグッバイサラバイ」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=64bvI2KXz0E

一般の人には全くなじみが無いと思うけれど1970年代のフォークソングに浸った人には、知る人ぞ知るフォークソングの名曲だ。



●斉藤哲夫「グッド・タイム・ミュージック」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=QAs7pa8OE54

う~~ん、名曲だ。

音楽家のサガとリスナーの深い絆を唄った斉藤哲夫の中での一番の作品です。



●斉藤哲夫「いまのキミはピカピカに光って」(作詞:糸井重里、作曲・編曲:鈴木慶一)
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=Z2IZPdPcYQI


「宮崎美子」と「斉藤哲夫」を一躍、世の中に踊りださせた曲。



●斉藤哲夫「悩み多き者よ」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=t1ejH9kpE7Q

心に沁みる音楽。

青春が甦ってくる。




■■日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作■■
             ↓
日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作



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日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作(2)




タグ:斉藤哲夫
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フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●加川良「教訓I」 [日本のフォークの歴史]

●加川良「教訓I」

1970年代、アート音楽出版(URCの版権管理会社)に入社する。

高田渡、岡林信康、高石ともやらの影響でフォーク・ソングを唄い始め、1970年の第2回中津川フォークジャンボリーでは飛び入りで「教訓I」を発表し、一躍人気者に(後に、「教訓II」なぎらけんいちや、「教訓110番」三上寛などパロディー作品も発表された)。

『教訓』(1971年)でURCからデビュー。

「こがらし・えれじい」「偶成」を含む『親愛なるQに捧ぐ』(1972年)、中川イサトとのライヴアルバム『やぁ。』(1973年)をたて続けに発表。

また1972年、よしだたくろうの代表作『元気です。』に「加川良の手紙」(作詞・加川良、作曲・吉田拓郎)という曲が収録された。


●加川良「教訓I」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=FSaMY7TRgFI

強烈に反戦を唄った名曲だ。

戦争を皮肉った最高の歌だろう。



●加川良「東京」 
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=CPs4hpTrAUU

色んな歌手が「東京」を歌っているが、加川良の歌う「東京」はセピア色の東京だ。



●加川良「あした天気になあれ」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=nVSkzEIuYpw

市民の視線で歌った「幸福」の歌。

加川良の声が温かい。



●加川良 「伝道」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=uQxqOFdaKFE

聴いていると「ホッと」する歌。
まるでビートルズの「Let it be」のようだ。
高校時代にこの歌を聴いてずいぶん助けられた。



●加川良 「知らないでしょう」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=d41jT5gKrjg

切なく、ほのぼのとする恋の歌。



●加川良 「たかが私にも」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=colZqQwsUcA

加川良の名作中の名作。

人生を放浪する人間のための歌だ。



■■日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作■■
             ↓
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タグ:加川良
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フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●加川良「教訓I」 [日本のフォークの歴史]

●加川良「教訓I」

1970年代、アート音楽出版(URCの版権管理会社)に入社する。

高田渡、岡林信康、高石ともやらの影響でフォーク・ソングを唄い始め、1970年の第2回中津川フォークジャンボリーでは飛び入りで「教訓I」を発表し、一躍人気者に(後に、「教訓II」なぎらけんいちや、「教訓110番」三上寛などパロディー作品も発表された)。

『教訓』(1971年)でURCからデビュー。

「こがらし・えれじい」「偶成」を含む『親愛なるQに捧ぐ』(1972年)、中川イサトとのライヴアルバム『やぁ。』(1973年)をたて続けに発表。

また1972年、よしだたくろうの代表作『元気です。』に「加川良の手紙」(作詞・加川良、作曲・吉田拓郎)という曲が収録された。


●加川良「教訓I」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=FSaMY7TRgFI

強烈に反戦を唄った名曲だ。

戦争を皮肉った最高の歌だろう。



●加川良「東京」 
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=CPs4hpTrAUU

色んな歌手が「東京」を歌っているが、加川良の歌う「東京」はセピア色の東京だ。



●加川良「あした天気になあれ」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=nVSkzEIuYpw

市民の視線で歌った「幸福」の歌。

加川良の声が温かい。



●加川良 「伝道」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=uQxqOFdaKFE

聴いていると「ホッと」する歌。
まるでビートルズの「Let it be」のようだ。
高校時代にこの歌を聴いてずいぶん助けられた。



●加川良 「知らないでしょう」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=d41jT5gKrjg

切なく、ほのぼのとする恋の歌。



●加川良 「たかが私にも」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=colZqQwsUcA

加川良の名作中の名作。

人生を放浪する人間のための歌だ。




■■日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作■■
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フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●友部正人「大阪へやって来た」 [日本のフォークの歴史]

●友部正人「大阪へやって来た」

ボブ・ディランの「Like a Rolling Stone」を聴き、衝撃を受けソングライティングにのめり込むようになる。

ウッディ・ガスリー、レッドベリーが汽車の中でやった生活者の感情を歌うスタイルを日本でやりたいと思い、路上で歌い始める。

やがて学生運動に参加し火炎瓶を投げ、鑑別所に入れられてしまう。

1960年代末、名古屋市から大阪市に移住。西岡恭蔵、大塚まさじらと出会い、高田渡を通して喫茶店に通い古書店で詩集を読む生活をする。

1971年、中津川フォークジャンボリーに参加し、シバ、岩井宏、いとうたかお、山本コータローらと、武蔵野タンポポ団のセッションに参加。

1972年、『大阪にやってきた』でデビュー。

1973年、「にんじん」、「また見つけたよ」をリリース。


フォークシンガーになりたかったけれど、「詩人」になった友部正人の歌詞は衝撃的だ。

詩人の谷川俊太郎も高く評価している。


●「大阪へやって来た」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=e990KauU45E

初めてこの曲を聴いた時、「なんだ!これは?!」 と思った。

まるで村上春樹の世界だ。



●「一本道」
  ↓
http://www.youtube.com/watch?v=E8DgYD8enPw

これぞ、フォークソング、って感じだ。

「中央線よ、空を飛んで、あの娘の胸に突き刺され」という歌詞。

友部正人ならではの世界だ。




■■日本のフォークソングの歴史、フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソングの名作■■
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http://folksongssite.web.fc2.com/index.html


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             ↓
https://sites.google.com/site/folksongsite/



タグ:友部正人
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フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●赤い鳥「竹田の子守唄」 [日本のフォークの歴史]

●赤い鳥「竹田の子守唄」(1969年)


1969年11月、「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に関西・四国地区代表として出場。

「竹田の子守唄」、「COME AND GO WITH ME」を歌い、フォーク・ミュージック部門の第1位を獲得、他部門の優勝グループを抑え、グランプリを獲得(この時、オフコース(当時は「ジ・オフ・コース」として)、チューリップ(当時は「ザ・フォー・シンガーズ」として)も出場していた)。

財津和夫はオフコースを聴いて「負けた」と思い、オフコースの小田和正は赤い鳥を聴いて「負けた」と思ったという。


●「竹田の子守唄」
  ↓
http://www.youtube.com/watch?v=X1-3SHjOHmM



●「翼をください」
  ↓
http://www.youtube.com/watch?v=rQDzThbjLL0

中学校の合唱コンクールで歌った。

若者の心をガシっとつかむ歌だよね。




解散後 [編集]

その後、後藤・平山の夫妻は「紙ふうせん」、山本夫妻と大川は「ハイ・ファイ・セット」、渡辺は「ハミング・バード」を結成した。


●ハイ・ファイ・セットの「卒業写真」(荒井由美作詞・作曲)
  ↓
http://www.youtube.com/watch?v=rHSQAm_p7rs



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日本のフォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●吉田拓郎。「結婚しようよ」、「人間なんて」、「どうしてこんなに悲しいんだろう」 [日本のフォークの歴史]

吉田拓郎。

日本のシンガーソングライターの草分け的存在である。

マイナーな存在だったフォークとロックを一気に日本の音楽シーンのメインストリームに引き上げ、また大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立など、さまざまな新しい道を開拓したパイオニアとして日本ポピュラーミュージック史における最重要人物の一人である。

「フォークソングの貴公子」とか「和製ボブ・ディラン」等とも呼ばれた。

僕の中学時代は、吉田拓郎、一色だった。

吉田拓郎を最初に知ったのは、中学1年の時に、その時のガールフレンドが僕の隣で「僕の髪が肩まで伸びて~、君と同じになったらぁ~、約束通り、町の教会で結婚しようよ~♪」と鼻歌感じで歌ったのが最初だった。

その後、ラジオの深夜番組はもちろんのこと、テレビでも「結婚しようよ」が流れ始めた。


●吉田拓郎「結婚しようよ」(1972年)
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=qT4nQLeXhmc


「お~~!面白い。自分のことを自分で作詞、作曲して歌を唄っていいんだ~!」と思わせてくれた。

僕はすぐにお小遣いを持って、村に一軒の電気屋さんに走り、「元気です」という吉田拓郎のアルバムを買った。

この「元気です」というアルバムは僅か1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録、オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走しアルバム・セールス時代の先鞭をつけた。

しかし!!

吉田拓郎はテレビのヒットソング番組への出演を拒否!!

その行為そのものが、若者の(僕の)心をつかんだ。

ちなみに、この「結婚しようよ」のバックに流れいてるハモンドオルガンは松任谷正隆(ユーミンの旦那)だ。



●吉田拓郎「人間なんて」(1971年)
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=1QoEcK80p0Y

吉田拓郎の「元気です」を買って、すっかり「拓郎熱」に浮かされた僕はバスで長岡市内の大きな電気屋さんまでいき、その当時発売されていた吉田拓郎の全てのアルバムを購入。

中学1年生の少年にとって、驚愕したのが、この「人間なんて」だ。

噂によると、吉田拓郎は「中津川フォークジャンボリー」で、この「人間なんて」を延々2時間も歌ったということを「ヤング・フォーク」という雑誌や「ヤング・ギター」という雑誌で知る。

その4年後、静岡県掛川市のつま恋で「吉田拓郎、かぐや姫、オールナイトコンサート」(1975年)に出かけ、生で、「人間なんて」を自分も声を限りに叫んだ。(多分30分ぐらい。)

さらに、その4年後の1979年に愛知県の篠島という離れ小島で一晩のコンサートがあり、それにも参加。

帰りの船の音が全て「人間なんてララララララ~♪」と聞こえた。



●吉田拓郎「どうしてこんなに悲しいんだろう」(1971年)

上記の「人間なんて」のアルバムに入っている、吉田拓郎らしい大傑作。(初期の吉田拓郎の中では、僕はこの歌が一番好きだ。)
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=b3gPkhmSibk



●吉田拓郎「落陽」

吉田拓郎のコンサートでは今も昔も欠かせないのが、この「落陽」。(どうでもいいのだが、僕が歌える「カラオケ」はこの曲だけだ。)
  ↓
http://www.youtube.com/watch?v=34-GwKl5JwU



●吉田拓郎「アジアの片隅で」

吉田拓郎中期の大傑作。

この曲は武道館で初めて聴いたのだけど、鳥肌が立った。
  ↓
http://www.youtube.com/watch?v=-OLX49L8oFg



●吉田拓郎「永遠の嘘をついてくれ」

中島みゆきの作詞・作曲によるものだが、まるで拓郎が作ったのかのように見事に「字余り」の曲で、「酔っぱらい」が出てきて、「日本」が出てくる。

最近の曲の中では、僕が最もよく聴いている曲です。(中島みゆきバージョンも含めて)
  ↓
http://www.youtube.com/watch?v=O9Bsp72aUbM




吉田拓郎のその他の作品は「特集」をご覧ください(まだ、そのページを作ってないけれど、作成予定。)






■■日本のフォークソングの歴史、日本のフォークソングの名曲、昭和のフォーク、日本のフォークソングの名作■■
             ↓
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日本のフォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●アンドレ・カンドレ(井上陽水)「傘がない」、「心もよう」、「氷の世界」(おまけに石川セリも) [日本のフォークの歴史]

1969年・・・アンドレ・カンドレ(井上陽水)がデビュー。

ラジオから奇妙な声で流れてきた「さびしさのつれづれに~~♪」(心もよう)。

あれよあれよという間に、ヒットチャートを上昇。

歌謡曲をなぎ倒し、1位に。

「心もよう」が入っているアルバム「氷の世界」は日本のレコード史上、初の「ミリオンセラー」(100万枚売上)になった。

フォークのジャンルじゃなくて、歌謡曲も演歌も含めて、初めての「ミリオンセラー」なのだ。

当時のフォークソングの過熱ぶりが分かる。

ここに来て、レコード会社は「フォークはカネになる」とばかりに、有象無象のフォークシンガーを輩出した。


1970年代には吉田拓郎と双璧をなし、フォークソング界あるいはニューミュージック界を牽引した。

1973年発売のアルバム『氷の世界』は、アルバムとして日本市場で初のミリオンセラーを記録する。

その後も1984年のアルバム『9.5カラット』が売り上げ100万枚、1999年のベストアルバム『GOLDEN BEST』は売り上げ200万枚を達成するなど、長いキャリアを通して高い人気を維持し、日本ポピュラーミュージック界の最重要人物の一人として活躍し続けている。

デビュー前からビートルズの熱狂的なファンである。

コンサートやテレビ番組の中でしばしばビートルズの作品を歌うほか、ビートルズの影響は楽曲の随所に見られる。

2人目の妻である石川セリとの間に一男二女がおり、長女は作詞家・歌手の依布サラサである。

「石川セリ」も僕は大好きだ。



●井上陽水「傘がない」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=E4ZrwPQqxxA

なんて、暗い曲なんだ、というのが、僕の最初の印象だった。

若者の「刹那主義」をよく反映している。




●井上陽水「心もよう」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=E4ZrwPQqxxA


僕の井上陽水の初体験は、この「心もよう」だ。

独特な世界を叙情的に歌い、歌唱力がムチャクチャあるフォークシンガーだな、と思った。

この頃から、自分で作詞、作曲し、演奏して歌まで歌う、というフォークシンガーのスタイルに対する「シンガー・ソング・ライター」というネーミングも定着してきた。

で、この「心もよう」に戻るけれど、中学2年の時に、1学年上の女子生徒からバレンタインにチョコとマフラーと、この「心もよう」の歌詞が書かれたラブレターをもらった。

僕にも、そういう時代があった、というだけの切ない思い出なのですが・・・・・・。



●井上陽水「氷の世界」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=YipURaQP-IY


僕のとっては、井上陽水は、この「氷の世界」が、そのまま井上陽水の世界観になっている。

聴けば聴くほと、不思議な歌詞だ。

「りんご売り」なって聞いたことある?

でも、調子のいいロック調の大好きな音楽だ。

聴いていると元気が出てくるぞ。




●井上陽水の奥さんの石川セリの「ダンスはうまく踊れない」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=tVtcK-xmXto


作詞・作曲は井上陽水。


ついでに、石川セリということ絶対に外せない曲がある。
   ↓
●石川セリ「『つぶやき岩の秘密』 主題歌 「遠い海の記憶」 」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=53Wkwr55QGs

NHK少年ドラマシリーズの中でも屈指の名作『つぶやき岩の秘密』の主題歌。

いや~~~!懐かしいな。中学校の同級生たちの顔まで浮かんでくるよ。


さらに、さらに石川セリということ絶対に外せない曲がある(その2)。
   ↓
●石川セリ「八月の濡れた砂 」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=En26n8uDN0s



井上陽水のその他の作品は「特集」をご覧ください(まだ、そのページを作ってないけれど、作成予定。)


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日本のフォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●RCサクセション「ぼくの好きな先生」、「宝くじは買わない」、「LOVE ME TENDER」 [日本のフォークの歴史]

RCサクセションのファンに怒られるかもしれないけれど、僕にとってRCサクセションは「フォークグループ」だ。

初期のRCサクセションには「三浦友和」が入っていた。

忌野清志郎がよく言っていた自慢話に「三浦友和にギターを教えたのは俺だ」というのがある。

僕の今の住まいの近くに「たまらん坂」があり、そこの石垣に忌野清志郎の落書きがある。

「多摩蘭坂」という曲も作っている。
  ↓
http://www.youtube.com/watch?v=-FzYxaFp4Es


忌野清志郎が亡くなった時と一周忌に、その「たまらん坂」に多くの若者が集まっていた。



RCサクセション(アールシーサクセション、RC SUCCESSION)は、日本のロックバンド。

忌野清志郎をフロントマンとし、「King of Rock」「King of Live」の異名をとるなど日本語ロックの成立や、現在日本で普通に見られるロックコンサート、ライブパフォーマンスのスタイルの確立に大きな影響を及ぼした。

実際、RCサクセション (以下、特段の理由がない限り「RC」と略す) に影響を受けたと公言するミュージシャンは非常に多い。

また、彼らが発信するファッションや言動などは音楽業界にとどまらず若者の間でサブカルチャー的存在とまでなり、1980年代を中心にまさに時代を席捲した。

その後、1991年より無期限の活動休止状態に入ったまま復活することはなく、2009年5月2日に忌野が癌性リンパ管症のため死去した。


1970年、「宝くじは買わない」で東芝音工(現EMIミュージック・ジャパン)よりシングルデビュー。

1971年、RCが活動拠点の一つとしていた渋谷のライブハウス「青い森」で当時フォークグループ古井戸として活動していた仲井戸麗市と出会う。

1972年、ラジオ番組「ハロー・パーティ」「バイタリス・フォーク・ビレッジ (後に、『ライオン・フォーク・ビレッジ』に改題)」 などへの出演を始める。

3rdシングル「ぼくの好きな先生」がヒット。

1stアルバム「初期のRCサクセション」をリリース。

1978年、春日がメンバーとして参加し、フォーク形態からロック / R&B形態へとバージョンアップされる (当時は、その衝撃の大きさからマスコミでは「パンク・ロック」と評されることが多かった)。

さらに、新井田、仲井戸が正式に加入し、RCの黄金期を形成するバンドの基礎が完成する。

忌野は髪を短く切って逆立て、派手な衣裳にどぎついメイクをしてステージに出るようになる。


●RCサクセション「宝くじは買わない」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=7CnGsKTHtNw


●RCサクセション「ぼくの好きな先生」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=ZHSnb5XsYDM (デビュー当時)

     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=AA9B0I0aRe4&NR=1 (その後の姿で)



この独特な歌声と素朴な歌詞がラジオから流れてきて、僕は驚いた。

なんて素敵な奴なんだろう、と。

たまたま、僕が通っていた新潟県立柏崎高校の美術に先生は女性なのだが、ヘビースモーカーで、よくタバコを吸いながら、絵の採点をしていたので、この「僕の好きな先生」と重なった思いでがある。
(こちらは、「おじさん」ではなく「おばさん」だったのだが。)


その後は、僕の前に現れなかった初期のRCサクセションだったが、次に僕の前に現れたRCサクセションはギンギンにロックバンドの変身していた。

1978年当時だ。


活動拠点としていた「青い森」「渋谷ジァン・ジァン」などのライヴハウスで、古井戸、泉谷しげるらと親交を深める。

泉谷は当時のRCのことを「RCは凄まじかったね。アコースティックギターのリズム隊でありながらロックだったわけよ。ウッドベースなんかスリリングでさ、すんげえソウルフルなんだよ」と評している。


忌野が作詞・作曲した「指輪をはめたい」を元にして、井上陽水と「帰れない二人」を共作。

もう1曲「待ちぼうけ」を共作し、この2曲が収録された井上のアルバム『氷の世界』 (1973年) がミリオンセラーとなる。



●忌野清志郎&井上陽水「帰れない二人」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=0USYCP6VWv4



●忌野清志郎&井上陽水「待ちぼうけ」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=nszrKQXe2ro





今年になってまさに脚光を集めた「反原発」の歌がある。

作成した当時、RCサクセションは東芝EMIからレコードを出していたけれど、その親会社である東芝は「原発」を作っていた。(福島原発も東芝の製造だ。)

そのため、親会社からクレームがつき、レコードが発売されなかった。

その時、新聞広告に「素晴らしすぎるレコードのため発売中止になりました」というコピーが載った。

1988年、東芝EMIより発売予定だったシングル「ラブ・ミー・テンダー」とアルバム『COVERS(カバーズ)』が、収録曲の歌詞の問題で発売中止となる。

同シングルとアルバムは結局古巣キティレコード(現ユニバーサルミュージック)から発売され、RCとして初のチャート1位を獲得する。


●忌野清志郎「LOVE ME TENDER」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=7E6huKlEjl0


RCサクセションと忌野清志郎のその他の作品は「特集」をご覧ください(まだ、そのページを作ってないけれど、作成予定。)




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             ↓
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